時間、時歓

数日前に観た映画の感動、衝撃、余韻から抜け出せない。ずっとエンドロールの幸福感の中に居る。そんな映画の感想でも書いてみようと思う。

 

『ドロステのはてで僕ら』この作品は人気の劇団である「ヨーロッパ企画」が手がける劇団初の長編映画である。キャッチコピーは「時間に殴られろ。」 、急にタイムテレビとなり自室のテレビに2分後の世界を映し出した階下のカフェのテレビ、時空の歪みを生むタイムテレビの周りで展開していく人々の一晩のドタバタを描いた70分の時間SF映画だ。正直この一文の説明であってるのか自信が無い程、設定が難解なものではあった。複雑な時空の歪みに何度も殴られた。しかし、鑑賞後に残ったのは、心地よい、漂うような、そんな幸福感であった。

 

まず登場人物たちのことを書いていきたい。主人公であるカフェのマスターは、終始巻き込まれた感の強いキャラクターで、陽気でタイムテレビに興味津々な他のキャラクターに比べると2分後という少しの未来でさえも知ることに抵抗がある、そんな男である。未来への抵抗の理由はなんともしょうもないものなのだが、ヒロインへの感情も含めその純朴な感じが、周囲の人間の面倒臭さも相まってとても魅力的に映る。ヒロインのカフェの隣の理容室のお姉さんは、その主人公よりもさらに巻き込まれた感の強いキャラクターである。なんなら元彼がシンバルを置いていかなかったらヒロインになることすらなかった女性である。しかしその誰よりも不幸な状況での感情の動きを、私たちは時にニヤニヤしながら、時に唖然としながら見守るのである。そしてその他の周りの人物は、みーんな、漏れなくみんな、「やれやれコイツは…」感満載のキャラクターばかりである。勝手に部屋に入るし、勝手にもっと未来見ようとするし、どんどん未来に引っ張られてるし、金儲けしようとするし、「ほんまお前らおらんかったら…」ってずっと思ってしまう。結果が結果やから許すけどよぉ…って感じだが、主人公の良い奴感を増し増しにはしたので良しとしよう。そんな人達のほとんどが劇団員である。まだ見たことないがいつかは絶対劇団の本公演観に行きたいな。

 

ここからは好きなポイントをかいつまんで書こうと思う。まずその撮影方法に驚いた。ワンショット長回し風で、ずっと1台のカメラが彼らを追い続けている。だから我々が見ているのはずっと「現在」なのだが、それが未来として予告されたものであったり、後に過去として描かれたりする。ずっと過去/現在/未来が共存した世界線を1つの視点で見ていると本当に時間に殴られたような、そんな緊張感と疲労感でいっぱいになる。すげぇ試みや…という感じだった。そしてその殴られた感の強い構成要素の他の一つが、徐々に未来に操られている感じ、支配されていく感じである。2分後の世界に映っていた通りに動かないと歪みが生まれる。その義務から段々と現在の彼らが縛られていく。その結果未来の主人公に現在の主人公が騙されるなんてことも起きてしまう。しかしその未来からの支配に逆らった時、まるで時間に、未来に強烈なカウンターパンチをしているような、そんな瞬間を見届けた気分になった。そして、私が個人的に1番好きだったのは、その時間の怒涛のスパーリングの後の、主人公とヒロインの2人がコーヒーを飲んでいるラストシーンである。過去/現在/未来の本来同時に存在できない世界線が重なり続けて、一悶着二悶着も起こって、そんな忙しない1時間の後の、現在という緩やかな時間だけが流れながら、ありえない1時間のうちに急激に好転した2人の関係を描くあの場面は、私に穏やかに「今」を過ごすことの漂うような幸福感を強烈に与えた。やはり緊張の連続の後に与えられる緩和のひと時に私は幸せを見てしまう。そんな穏やかな感情をエンドロール、そして主題歌の『タイトルコール』(バレーボウイズ)がより一層引き出してくれた。なんだか「この作品の主題歌がこの曲で良かったな」という気持ちになった。青臭いような「あの頃」のような感覚を見せてくれるこの曲が大好きになった。

 

落ち着かない感情を書きなぐったような文章なので、今回もまたとても稚拙な文章となってしまった。まあ私はこの脚本を手がけた上田誠さんではないので稚拙でいいのだ。この傑作SFに対してエンタメの受け手でいられることが何よりも幸福なのかもしれない。

裏、麗、恨

 

私はエンタメが好きです。

 

なんて前置きから始める通り、今回はエンタメと自分、演者と自分、に対する価値観をここに一度書き記したくなったので、思いのままに書いてみます。

 

アーティスト、俳優、芸人、タレント、これらの人達のことを「表舞台に立つ人」と書くことがあります。「表舞台」という言葉の通り、この人達は準備してきた自分の「オモテ」を私たちに見せてくれます。アーティストなら楽曲・ライブ、俳優ならドラマ・映画、芸人ならネタ・トーク、これが彼ら・彼女らが見せてくれる、私たちが見られる「オモテ」です。

 

「オモテ」があれば「ウラ」があるのも必然です。テレビ、ラジオ、劇場、ライブハウス。これらの「オモテ」を伝えてくれる媒体から離れた演者の全てが「ウラ」です。私たちエンタメの受け手はこの「オモテ」だけ見ていればいいはずなのですが、時にやたら「ウラ」を見せてこようとする輩がいます。ラジオやトーク番組で自身の「ウラ」での一面を語ることは、その選択の時点で「オモテ」になるのですが、勝手に「オモテ」を強引にめくり上げて受け手に「ウラ」を見せつけてくる第三者の存在に私たちは度々出会います。芸能人のゴシップを報じる週刊誌。アイドル業界について語りたがる元アイドル。決して名もソースも明かさずにペラペラ喋る"某関係者"。なかなか避けては通れない人達です。

 

私はこの人達が嫌いです。この人達の情報をウキウキで受け取ってここぞとばかりに叩く人達も嫌いです。どうして「ウラ」を知る必要がありましょうか。どうして「ウラ」を見せつける必要がありましょうか。どうして「ウラ」を批判する必要がありましょうか。

 

表舞台に立つ人達は「オモテ」を見せる仕事です。その「ウラ」にはやましいことの一つや二つあるかもしれません。数々の主演を張る俳優が二股をかけてるかもしれません。笑顔を振りまくアイドルがドロドロの恋愛をしてるかもしれません。だから何だと言うのでしょうか。「オモテ」での技術・力量を磨き私たちに見せてくれる演者を「オモテ」のみで評価することは、世間知らずで滑稽なことなのでしょうか。素直に「オモテ」100%で楽しむことは馬鹿のやることなのでしょうか。

 

俳優がどんなに荒んだ私生活を送っていようが、ドラマや映画において素晴らしい演技を見せてくれるなら関係ないでしょう。アイドルはファンタジーを提供するサービス業だと私は考えているので、アイドルが恋愛や不仲のうんぬんを見せないことに対して、ファンは見ないことで応えるべきでしょう。

 

「オモテ」を見せて楽しませてくれる人達の「ウラ」を詮索することは野暮、「オモテ」だけを見る素直さこそが美徳、という考えが大事にされても良いのではないでしょうか。知るべきでないことを知らないことが、無知として嘲笑されるような事態は私は嫌です。『見せてくれるものを見る』という価値観を私は大事にしたいですし、そう考える人が多ければ嬉しいです。

 

久しぶりに一気に文章を書いたので少し疲れましたが、ヤな絡まり方をしてた頭はスッキリしました。駄文を書くことは楽しいです。また書きます。

炎上、縁情

ナインティナイン岡村隆史オールナイトニッポン』における岡村さんの発言に関して、Twitterのトレンドに出てきた日から放送内での謝罪及び相方の矢部さんによる説教を聴いた今まであれやこれやといろいろと思考を巡らせていたのだが、どうしても気が滅入ってしまうのでここに文章を起こして終わりにしようと思う。

今回の発言の内容については、自分の善悪のジャッジに自信が無い上、ジャッジするべき人間でも無いので触れたくないが、公式に各方面から謝罪が上がってる以上、社会的に批判を受けるべき内容であると思う。その上で私が気になったのは、発言の代償として求められていることだ。今回の発言の問題点はもちろん一面的では無く、複数の面で批判を受けるべき内容であり、その中のひとつが「人の失職や貧困・困窮を喜ぶような発言」であると考えられる。それに対する批判はあってしかるべきものだと思うのだが、その代償として「オールナイトニッポンの降板」「チコちゃんに叱られるの降板」「大河ドラマの降板」、さらには「芸能界引退」を求める声がネット記事やANN公式アカウントのツイートに対するリプライの中で見られた。ここに私は違和感を覚えた。失職や貧困を喜ぶような発言に対する批判の上で失職や貧困に繋がるような代償を求めるというのはどうも自分の価値観にはしっくり来なかった。望むべきでないものを望んだことへの批判の先に、その"望むべきでないもの"を望むのはおかしいだろうと思うのだ。謝罪と反省を促すのは至極真っ当であるが、それ以上の私刑、ましてや本質的に同等な行為を促すというのはいかがなものか、と。そこが私が報道後から放送前までで一番に引っかかっていたことである。

そして木曜日、ナインティナイン岡村隆史オールナイトニッポンの放送日である。パーソナリティである岡村隆史による謝罪が続いた後、相方である矢部浩之がブースに登場した。奇しくも、番組開始当初のスタイルがこのタイミングで再現されたのである。矢部さんによる公開説教では岡村さんの人間性そのものに切り込んでいった。他人への感謝の気持ちが裏では一切見られていないこと、パッカーンした時期を経て「可哀想さん」と見られていたことに甘えていたが実際には恵まれてる人間であることなどが指摘された。正直聞いていて落ち込むものがあった。ラジオが今の生活には一番の娯楽である人間に、こんなにも笑えないラジオは辛かったが「ここに目を背けてはいけない」という思いがあった。番組後半、矢部さんは岡村さんに「結婚したら?」と言った。これには正直びっくりした。今回の問題からそんな提案に繋がるとは全く考えていなかったからだ。しかしそれまでの説教、結婚した矢部浩之の変化、結婚しない岡村隆史の女性観の歪みについて聞いての私なりの解釈だが、矢部さんは岡村さんに「結婚を真剣に考えることで、逃げずに真正面から女性と向き合ってほしい。女性との向き合い方を含めた人格の歪みを変える努力をすべきだ。」ということを伝えたかったのだと思った。

放送後、Twitterのトレンドからいろんな意見や感想を見た。似たような考えの人もいれば、「矢部もズレてるじゃないか」「問題はそこじゃない」というものもあった。そういうツイートに対して「そうじゃないよ!問題を生む根本の人格の部分に向き合ってほしいんだよ!誤解しないでよ!」という気持ちになったが、よくよく考えるとこれはこれでおかしいだろう。自分が誤解してないとはどう考えても断言できないからだ。今回矢部さんが伝えたかったことを一言一句正しく表現できるのは矢部さんだけだし、岡村さんがどう受けとったのかも同じだ。それなのに、全能感を抱いてSNSに向き合うと「それは正しい」「それは誤解だ」という判断を勝手に進めてしまうからだんだんと歪んでいき疲れていく。

 

この1週間もない期間の考えの揺れを長々とここに記してきたが、自分のSNSへの向き合い方、SNS疲れの根本にある考え方に気づかされたなと思う。これからもラジオは私の中の最高の娯楽であるし、ラジオパーソナリティには尊敬と愛を持っていたい。もちろん心酔しては危ないということも今回学べたと思う。ただ、やっぱりSNSの利用が浸透した批判社会でも謝罪を受け入れて次に進む「ごめんなかまへん」の気持ちは常に持っていたいなとも思った。

そして、自分と真正面から向き合って叱ってくれる同世代がいる岡村隆史という人が少し羨ましくも感じた。コンビの縁は最高だ。そんな人がいつの間にかできるような人間になっていたい。

文筆、分泌

今までTwitterのいわゆるリア垢、そしていわゆる鍵垢にいろいろ駄文、呻き、妬み嫉み、悩み、論述、あれこれを書き連ねてきたが、誰にも言えない、誰にも見せない、だけど誰かに知られたい思考を文章に書き起こしたくなったのでブログを始めた。FF数人の鍵垢の中の、自分のパーソナリティをある程度理解してる人間には見せたくないが、FF0人の一切誰にも知られることの金輪際無い場所で書くには淋しい文章をつらつらと心のままに書いていこうと思う。少し楽しい。わくわくしてる。好きなことの論評だってしてみたい。最近見た『初恋』という映画は最高だった。だけど一緒に見た友人の反応は芳しくなかったからその場では語れなかったし、Twitter上で文化人気取りに思われるのもムズムズしてしまう。気が向いたら思いっきり『初恋』のそのスケールのデカいバイオレンスをフリにした小さな恋の感情の描き方の素晴らしさと俳優陣のそれぞれの好きなシーンについて語ろうと思う。ラジオも好きだしラジオについても何か語りたい。芸人のラジオの笑いへの熱も好きだし、俳優のラジオのスクリーンの奥とは違うダサさも好きだし、アイドルのラジオの女子会に聞き耳を立ててるような感覚も好きだ。佐久間宣行のオールナイトニッポン0はどういうくくりなのかは分からないが最高だからそのうちこれも語りたい。エンタメおじさんは最高だ。音楽も好きだ〜ってことを書いていこうかなと思ったけども、この600文字のあたりで少し疲れてきた。普段よく140字で収めてきたなと思うくらい一気に書いたけどやっぱりまだ体力が全然無い。好きなだけ好きなペースで書いていこう。あー、いつか誰かこのブログ見つけてパーソナリティを全く知らないまっさらな状態から会話もしたいな。夢は広がる。文章は偉大なのかもしれない。